映画1965 痛みにあふれた独立 そして生活の素晴らしさ (2015年08月06日)
(どうせ日本公開されないだろうし、日本語話者でこの映画見る人あまりいないと思うので、ばんばんネタバレ書きます)
今年はシンガポール独立50周年にあたる。独立を描いた映画1965を見てきました。
日本語で感想書く人あまりいないと思うので、ブログ書きます。
シンガポールについてはいろいろと誤解も多いので、このFAQを何回も読むことをオススメします。この「今日もシンガポールまみれ」ブログは、どの記事も現象とそれをつなげる構造を、きちんと考えて体験して書いているのでいつも更新を楽しみにしています。
僕は日本生まれの日本人なので、たとえば自分の日本人としてのアイデンティティなどについて特に悩む必要はありませんでした。「独立」はテレビの中のもので、自分たちの力で政治を変えることは何かカッコイイモノだと思っていました。
シンガポールの独立について調べていて、考えが少し変わりました。シンガポールはマラヤ連邦の一部として、イギリス相手に独立運動をしていて、国父リー・クアン・ユーはマラヤ連邦をたいへんに愛していました。
ところが、マレー人と華人は価値観がいろいろ違います。華人は伝統的に勉強すること、商売してそれを大きくすること、コミュニティを作って投資することを好みます。僧侶になることを好むタイ人や、信仰にウェイトを置くマレー人とは別の理想型があります。どちらが正しいかは「好きにすればいい」のですが、同じ国で暮らしていると、華人のほうが商売で成功しやすいし、影響力の大きいポジションに行きやすいです。
国民の多くがマレーの国だと、そのままにしておくのは難しい面もあり、マレーシアではブミプトラというマレー人優遇政策(たとえば、成績はおいといて、大学では一定数マレー人を入れさせる。ほっておくとトップ校は全部華人が入ってしまう)が行われました。
また、マラヤ連邦内のシンガポールに対して、他のマレー地域からも、インドネシアほか、国外の共産主義者からも、さまざまな武装スパイ活動が行われました。
マレー人の被害者を華人の警官が見殺しにしたとか、華人の子供を誘拐してマレー組織のしわざと見せかけ、「ほら、国を転覆させないと、異民族に支配されるぞ。政府はおまえの民族の敵だ」と煽るような、民族対立をあおるやりかたです。また、華人のメディアもマレー人のメディアも、それぞれの正義のもとに民族闘争をあおりました。相手の新聞は言葉が違って読めないから、書き放題です。
シンガポールには今もメディア規制やデモの規制が残ります。それは、必死でこういう動きと戦ってきたリーとシンガポール国民の、「自由な報道より国の安定を優先する」という結果です。リーは、多言語教育を行うときに、「一つの言葉しか話せないのは、片目だけで世界を見ているようなものだ。相手の国の言葉で新聞を読んで、どう書かれているか理解しなければいけない」と書いています。言論を一方的に封殺するために報道規制をしているわけではありません。
映画ではその民族闘争が多く描かれます。近所だから簡単な意思疎通はできるけど、言語が違うからお互い深い対話はできないマレー・華人・インド人たちが、簡単なきっかけをもとにボタンの掛け違いが起こり、多くの血が流れます。
特に「誰が何語を喋っているか」という、シーンごとの会話が印象的でした。主人公である華人の警察長官(一番の上司はイギリス人で、現場監督にあたる)は、全体に指示を出す場面では英語を話し、家では中国語を話し、マレー人と一対一の時は簡単なマレー語を話します。
一方、彼が息子を見殺しにしたと迫る母はマレー語しか話せません。
映画の中の若い世代は複数の言語を操り、なんとか共に生きていこうとするのに対し、中国人の年老いた喫茶店主は、おいしいコーヒーは作るのですがマレー語は話さず、暴動で店が破壊されたのをきっかけに中国に帰ろうとします。
暴動がますますひどくなっていく中、ついにリー・クアン・ユーは他国からの影響を廃し、「多くの宗教、民族が手を取り合い、未来に向かって進めるシンガポールという国」を作るために、マラヤ連邦への溢れる愛から流れる涙をぬぐいながら、あの有名な演説をします。
恐れることはない。傷つけあうのでなく、冷静になろう。我々はシンガポールに、多民族国家をつくる。マレー人の国ではない。華人の国でもない。インド人の国でもない。ついに、我々は本当にシンガポール人になるのだ。今はもう、自分をマラヤ人とは呼べない。我々は人種/言葉/宗教/文化の違いを超えて手を取り合う。
かわりにシンガポールは、できたばかりの国に愛国心を抱いてもらうため、国営の住宅公社を成功させて国民に家を与え、経済政策を成功させ、成功した国営企業の株を国民に分け与えました。リーの回顧録には、国民の90%以上が持ち家を持ち、政府系企業の株を持ったとき、全員に「俺たちのシンガポール」という意思が生まれたという話が書いてあります。
リーは多くの人の生活の集大成が国になることを理解していたのだと思います。
1965では、独立後の話はほとんど登場しませんが、途中で中国に帰ると言っていた華人の喫茶店主が、店を大きくすることに成功し、「ここは、多くの自分のお客さんがいる場所だ」と話して終わります。
なんというか、一つ一つ毎日やることをだいじにしよう、人に必要とされることをしようという、エネルギーをもらえる映画でした。